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『観世音菩薩』 それはこの桃源郷にいる神様の一人。 慈愛と慈悲の象徴とされる、尊い御方として皆に崇めたてまつられている。 この世の1つの常識、といえよう。 が。 「へぇ?何か凄い名前だな」 残念ながらには常識というものがなかった。 目の前にいる両性体の名前よりも、今は自分の名前を何故知っていたのかが気になっている。 意外にも反応がないことに、観世音菩薩はおや、と首を傾げた。 「何だ、驚かないのか?」 「いやぁ、かなり驚いてるぞ。俺の名前を何で知ってるわけ?」 「…そっちか?」 普通の人間や妖怪なら『観世音菩薩』という名前に反応するはずだ。 だがは全く違うところに反応している。 ちなみに、そっちか?という言葉に何が?と返事が返ってきたのはすぐだった。 (…まさか、とは思うが……) 何となく思うところがある。 観世音菩薩は半眼で目の前の人物を見やった。 紫苑の瞳は未だ疑問を浮かべたまま、も首をかしげている。 「…、まさかお前、神様の名前を知らないってことは…」 「は?神様の名前?…何、そんな大層な名前でも貰ってたのか?」 それはよかったなぁ、でも俺無宗教だから全然知らないやと他人事として笑う。 ここでようやく、観世音菩薩は納得した。 (コイツ、神様のこと全く知らねぇときた) これまでも常識がない奴だとは思っていたが、まさかこれまでとは。 呆れると同時にクツクツと笑いが零れる。 そんな観世音菩薩の様子と同時に険しくなるのは目の前のの顔なわけで。 それがまた笑いを大きくしていた。 「まだ分からねぇか」 「分からんね」 さも当たり前のように答える。 観世音菩薩は不適にも、口に弧を描いた。 「神様だよ」 「あ?」 「俺がこの桃源郷の神様なの。観世音菩薩っつう、神様」 馬鹿でも分かるようにゆっくりと、ちゃんと自己紹介をしてやる。 なんて優しいんだ俺、と少し自己陶酔してしまう神。 その間、はまた脳内の辞書を捲っていた。 カミサマという言葉を色々と変換し直して、やっと神様と変換できる。 両性体の言葉がやっと理解出来たときのように、あぁ、と声をあげることが出来た。 「あぁ、うん、成る程。神様ね」 「そ」 やっと理解したか、と観世音菩薩が息を吐く。 が、表情が固まったのは次の瞬間だった。 「神様も大変だろうなぁ。まぁ、頑張って」 「……………………………………」 眩しいばかりの優しい偽善な笑顔。 それと同時に投げやりな言葉。 (……こりゃ駄目だな) 全くもって信じていない。 しかもこの視線は何か、こう、…良い視線ではない。 むしろ、『頭がちょっとイっちゃってる人』に対する視線だ。 まぁ、信じないのならしょうがない。 そのまま話を進めるべきだろう。 諦めの溜息を一つ、吐き出してから言葉を紡ぐ。 「…まぁとりあえず…お前の名前を知ってるのは俺が神様だからだ」 「………そうかそうか。なるほどね。うん。神様ならしょうがないか」 「…信じてねぇのは分かるが、その同情の目やめろ」 あからさますぎる、と観世音菩薩のツッコミが入る。 その言葉にはおっと失礼、と軽く謝った。 「で…ええと……か…かん…?何だっけ、名前」 「観世音菩薩だ」 「長いなぁ…じゃ、オン。俺に用事があったんだろ?何?」 名前を呼ぶにあたり、勝手に省略する。 しかも、『オン』とは、何とも微妙なところを取ったものだ。 本来ならば顔を顰めるところだが、それ以上に。 それ以上に。 『じゃあな、オン』 懐かしさが、込み上げる。 最期の別れの前の、あの微笑が脳裏を過ぎる。 しかし、それは過去。 今は今だ。 そう、彼女は『』なのだから。 「オン?」 が呼ぶ。 観世音菩薩はただ小さく笑って、なんでもない、と答えた。 過去の残像を振り切って、用事を思い出す。 同時に笑みは消え、真剣な眼差しになっていく。 観世音菩薩の瞳は真っ直ぐに、の紫苑の瞳を捕らえた。 「………辛いか」 その、低い声に。 の顔は渋く、歪んだ。 |