手は幾度も紅に染まっていく。
自分が生き抜くために。

それでも過去は戒めのように絡み付いて離れはしない。
いや、過去との決別は無理なのだ。
どんなに忘れようとも、追ってくるのだ。


それが、自分を育てた一つの要因なのだから。















「………………」



深い深い、そして長い夢を見ていた。
まるで魂の解放のときのような、長い過去を振り返っていた。

紫苑の瞳は定まっていない。
ただぼんやりと、真っ暗な部屋の、見知らぬ天井を見上げていた。


ここはどこだろうとか。
自分はどうしたんだっけとか。
腹が痛いが、一体どうしたんだっけとか。

現実を理解するには時間がかかる。




(ああ、そうか…刺されたんだっけ)


ようやく回りだす頭。
過去と今が混じり合う中、ぼんやりとしたそれが蘇り始める。



蜂窩の町。

変わらない町並み。
優しいお兄ちゃんと、優しい町の人々。

それが変わった瞬間。
お兄ちゃんだと思った人が腹を刺して。
多くの罵倒が飛び交っていた。



「…バカみてぇ」



動く両腕で、は自分の瞳を遮った。
押し付けてその重みを感じる。
それが、自分はここにまだ生きているということを実感させた。


考えれば分かることだ。
蜂窩の町が甦るなど、彼らが甦るなどないはずだというのに。
東の外れにある町が、こんな西にあるはずがないと、最初しっかりと考えていたのに。

それによく見れば、彼らは自分の知る町の人たちとは違っていたというのに。


一体どこで狂ってしまったのだろう。
この間の夢を、引き摺っていったからだろうか。


いや、引き摺っているのは過去だ。
今先程見た、悪夢のような。
本当の過去。



「…戻れるはず、ねぇのに」



何故期待してしまったのだろう。
あの頃に戻れたと。

優しい町の人達とお兄ちゃんがいた頃に。

戻れたなどと。



「……バカ、じゃねぇか…」



何度言い聞かせても、求めてしまっていた。
幸せな時間を。

それが酷く悔しく、悲しい。


彼らは自分の知る彼らではなく。
逆に自分が殺した彼らの親戚だという。
そう、魂の解放のときに一度は見たはずなのだ。

彼らが、自分を殺しにやってきた。
あの青明に似た青年、弟であろう彼も。



「………お兄、ちゃん……皆……」



自分のせいで死んでいったお兄ちゃん。
そして沢山の町の人達。
今でも思い出せるあの日。

彼らを亡くして苦しんでいるのはだけじゃない。
一番辛いのは、彼らを大切に思っている人達なのだ。


だからを待っていた。
その悲しみや苦しみから逃れるために。
元凶を殺して、自分達を安心させるために。



「……ごめん、なさい……」



誰もいないここで謝っても、誰にも届かないのに。
それでも言いたくなる。

過去自分によって死んでいく人々に。
自分の手で死んで逝った人々に、
それによって傷付く人達に。

泣きそうになりながらも、それだけはグッと堪える。



「……ごめん…っ………ごめんなさい…っ」



喉が酷く痛む。
心が酷く泣き叫ぶ。
唇をしっかりと噛んで、声を漏らさないように。
それでも瞳からは涙を流さない。


決して泣かない。

泣いても、始まらないのは分かっているのだから。










懺悔の声から、数分経つ。
ようやっと精神が治まってきて、息も整い始める。
自分の今の状況を、今更ながら確認しようと思い始めたときだった。




「……………起きたのかい」



どこからか聞こえた声に、はそっと腕を目の前からどかせた。
普段の冷静な、仮面を被った自分へと戻る。
先程まで溢れ出していた感情を、隠して。

聞いたことのある老いた女性の声。
紫苑の瞳をそちらに向ければ、紅の瞳とかち合った。

銀色の髪にどこか鋭い紅の瞳。
しかし優しそうな眼差し。



「…………貴女は………」



知っている。
自分は、彼女を。

魂の解放のときに、彼女の姿を見た。
数年前に。
父親であろう彼の魂を解放したときに。



「…二日間、眠っておったよ。今は深夜…というよりも早朝さね。時間で言うと四時頃さ」



目を見開くの心情を、彼女は知っているかのように頷いた。
ゆっくりと軋むベッド。
そこへと腰を降ろして。



「ここはあの町と少し離れた一軒家でな。あまりここに訪れる者はおらんから、安心しときな」



その言葉から、ここは老婆の家であることが分かる。
あの町から少し離れているだけの一軒家。
ならばすぐに、彼らに見つかることはないのだろう。

一つ安堵の息を零すと同時に疑問が浮かぶ。
何故、彼女がここにいるのか。
そして、何故自分を庇う立場となっているのか。

紫苑の瞳には、ベッドの下に眠る少年の姿をも映した。
自分と同じ顔をした、過去、見たことのある少年を。



「!?……どうして、ここに」


「この子がアンタを捜すって聞かなくてねぇ。『死神』だろうと姉だからとな。…だから、待っとったんじゃよ。アンタが絶対に通るだろうここでな」



父の魂の解放で見た姿よりも少し大きくなった少年がいる。
確か、名前は流音だった。

そしてこの老婆は、父の母親。
名前は確か、蓬希。



「な…んで…」



会ったこともない彼らが、何故自分を捜していたのか。
そして、必ずここに来ると待っていたのか。

困惑する中、老婆はゆっくりと微笑んだ。



「父親の夢が、流音に受け継がれたんじゃ。ただ、それだけじゃよ」


とまた一緒に、お前達と一緒に暮らしたいなぁ』



一瞬、脳裏に父親の声が響く。
自分を最期まで探してくれていた彼の声が。

母が死んだという報せを聞いて、を引き取ると決めた彼。
妻である女性を説得して、探し回ってくれていた。
それが、夢であると。



「…んな、ばかな…」



それが、彼に受け継がれたというのか。
『死神』である自分を姉だと認め、探してくれていたというのだろうか。
どこか幸せそうに眠る義弟である少年。
信じられずに首を振ると、老婆は再び微笑んだ。



「本当じゃよ。だからワシ達はここにおるんじゃ」



静かな声が、諭すかのよう。
しかし、それでもまだ信じきれない。
戸惑いを浮かべる中、それでもいいとばかりに老婆はそのまま、遠くへと視線を向けた。



「ああ、あと。あの小童達に礼を言うんじゃな。ここに運んでこなきゃ死んどったよ」



まだ心が整理されてないまま促されるように、も視線を向ける。
食卓であろう広間からはテーブルや椅子がどかされ、布団が敷かれている。
雑魚寝とも言うべきそこに転がる四つの身体。
寝息が大きく零れている、見知った彼ら。

紫苑の瞳はまたもや大きく見開かれた。



「!?……なん……で」



別れたはずだ。
なのにどうしてまだ、ここにいるのだろうか。
況してや自分をここまで運んでくれたなど。

三蔵も、八戒も、悟空も、悟浄も。



「ピーッ…」


「…白竜…も…」



の頭の傍には白竜がいた。
覗き込んで、頬をペロペロと舐める。
会ったときから変わらないその様子に、困惑するしかない。

二日間眠っていたというのなら、二日間彼らもここで過ごしていたということになる。
それは何を意味するのか。
分かっているはずなのに、分かろうとしない。

期待は、時に希望をなくすぐらいに裏切るのだから。
その考えを否定するかのように、老婆はゆっくりと口を開いた。



「『死神』など、面倒臭いからどうでも良いんじゃと」


「え?」


「…『』じゃとよ。だから自分達も好きにすると言っとった。『死神』を説明してもコレじゃ。大した小童らじゃよ」



それは誰の言葉だろうか。
考えたくはない。
期待など、してしまいたくない。

蓬希はそのまま、優しく笑んだ。
何も言わず、何も聞かない。
の心を、察することが出来たからこそ。



とにかく、彼らがここにいる、とだけ頭の中に刻み込む。
小さな白い頭を撫でてから、一つのことに気付く。
白竜と一緒にを見やる、もう一つの視線に。



「……お前……」



視線の元は、一匹の亀。
白竜の下でのんびりとを見つめている。



「龍さん、と言うんじゃよ。ワシらの家族じゃ」



老婆の紹介に目を細める亀。
は彼を知らない。
魂の解放の中では見たことがないからこそ。


だが、知っている。
共鳴する。

心のどこかが


はそっと、そこへと手を伸ばした。
白竜を撫でてから、ゆっくりと。

触れる硬い甲羅。
そしてそこから出る柔らかい頭。



「…俺と、同じ」



『死神』。
自分と同じだからこそ、すぐに感じ取れるその存在。
種族は異なるけれども、それだけは変わらない。
龍と呼ばれた亀は、に共鳴するように目を細めて撫でられた。



「…何が、どうなって…」



未だ困惑しか出来ない。
自分が腹に刺されたときの状況。
祖母や義弟がここにいること。
三蔵一行がここにいて、自分を助けてくれたこと。
『死神』が、ここにいること。

全てが一斉に起こるために、頭では理解しきれない。
蓬希は頭を抱え始めるを見ながら、のんびりと口を開いた。



「ゆっくりと整理しな。時間はたっぷりある」


「…………うん、ありがと」



その言葉に甘えてはそのまま、両腕を自分の目へと戻した。
天井を遮るように、闇へと戻るように。


今迄に起こったことを、理解するために。
これからどうするべきかを考えるために。

心が救われるような今までの言葉は、抜きにして。







今優先すべきは、自分を殺そうとする人達。

ここに『死神』がいると感付かれるのも時間の問題。


そんな自分を預かっている祖母と義弟、亀の龍にも危険が及ぶ。
勿論、助けてくれた三蔵一行にも。


また、コノ中の誰かを殺させるわけにはいかない。
死なせるわけにはいかない。


それだけは確か。




しかし、を匿ったとなれば伸びてくるだろう殺戮の手。
ならば。

自分がやるべきことは一つだけだ。





グッと拳に力が入る。
覚悟を決めて、また傷付くことを恐れていながらも。
進むことを、決めた。



「…無理はせん方がいい」



自分の腕に、誰かの温もりを感じる。
皺皺の、弱くも優しい腕。
それがしっかりとの両腕を握り、擦った。

自分の考えていることが、彼女へと流れるているのだろうか。
そんなことすら感じられる温もり。


思わず頼ってしまいたくなる。
甘えたくなってしまう。

それでも

それでは、何も変わらない





「………それでも、手は一つだけだ。俺の過去が引き起こしたことなら、尚更」



巻き込むわけにはいかない。
己が起こしたのだ、この事件を。


自分の問題。
そして彼らの問題。
解決するには、それだけしか。



「……俺には、これしかねぇんだよ……」



手を、紅に染めて。

闇の中で生きるしか。







彼女の泣きそうな呟きを聞いたのは誰だっただろうか。

食卓で眠る四人の寝息が消えたのを、老婆だけが感じていた。













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