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痛みと苦しみ、嬉しさと喜び。 多々の感情と痛みを抱く。 これで逝けるなどと、誰が決めたものかは知らない。 ただ決められたそれに、従うだけ。 そう、従う、だけ。 魂を解放した後、の身体は勿論、重力に従って倒れていた。 水筒に身体が当たり、コロコロと転がっていくのが横目に見える。 「…ハッ…ハァッ…」 息切れが酷く、汗と涙は滝のように流れている。 紫苑の瞳に映ったのは、憎きも美しき満月。 身体は例の如く、ピクリとも動かない。 救いだったのは、この魂の解放に悟空の姿がなかったことだろう。 六道の姿は、勿論あったが。 だからこそ垣間見てしまった。 三蔵の、過去を少しだけ。 「…ごめん」 そんな言葉は届かないと知りながら。 自己満足のために瞳を閉じて告白する。 三蔵の過去、名前を江流<こうりゅう>と呼ばれた頃。 師である光明三蔵をなくした夜。 六道の視点でありながらも、彼の泣いた姿が頭から離れられない。 「……ごめ、ん」 溢れる涙は止まらない。 汗は冷たい夜に冷え、消えていくというのに。 涙だけは、温かいまま。 「−いやはや、面白いものを見せてもらいました」 突如降ってきた声。 聞いたことのある、その厭味ったらしいそれに、はすぐに顔を顰めた。 瞳を開ければ、満月を遮った顔。 狐のような瞳を細め、を見下げている。 耳が尖っていること以外は、全て同じ。 口には点棒を銜えているそれは、やはり知った顔だった。 清一色。 今回の事件の、犯人。 「魂の解放というものは、本当に体力気力全てを使うんですねェ」 「…悪かったな」 クツクツと笑う彼を睨みつけながらも、心は酷く冷静だった。 彼がを狙うのは、きっと、このタイミングだろうと予想がついていたから。 目を開けているのが億劫だが、ここで意識を失ってしまえば何をされるか分からない。 勿論、開けていても身体が動かないために何も出来ないのだが。 だが、見えているだけマシだ。 「こうやって、我の魂も解放したんでしょうねぇ…数年前に」 冷たい手が、の頬を滑る。 涙が流れた軌跡を、ゆっくりと伝わせて。 覚えてはいない。 けれど、分かることがある。 清一色には、魂が存在しない。 残ったのは空っぽの身体と、何かの感情を宿した何か。 恐らく、自分を式神にしたのだろう。 本来の魂はきっと、彼の言う数年前にが解放したのだろう。 だからこそ、彼はの正体を知っている。 自分の、それがお世話になったのだから。 「貴方に逢えたとき、ゾクゾクしましたよ…その『正体』にね」 彼の手には魂の牌。 それを拭えば、死神の文字。 しっかりそれを紫苑の瞳に映して笑う。 「まさか、猪悟能のところにいるとは…運命とは全く、奇なるモノですよ」 猪悟能。 また出た、見知らぬ名前。 しかし、何となく察することは出来る。 彼は、八戒の精神を蝕もうとしているのは明白。 ならばその名前が示すのは彼のこと。 はただのんびりと、何の感情もなしにその牌を見つめる。 クツクツと笑うだけの、清一色を見やるだけ。 「で、何の用」 八戒の精神を壊すためならば、きっと自分をも利用するのだろう。 そんなこと、知っていながらも問う。 酷く冷静になっていく心を感じながらも。 目は、酷く細められている。 その奥に狂気を見出しながらも。 「貴方を、利用しに。貴方がいなくなればまた、不安に駆られるでしょうから」 正直な男だ。 そう考えているうちに、身体は支えられて宙へと浮かぶ。 いわゆるお姫様抱っこだかというもの。 全力で否定したいが、身体は本当に動いてくれない。 冷たい身体に抱かれるのは、まるで闇に抱かれるよう。 心の隅では、悟空や悟浄に抱えられたときのことを思い出した。 温かい彼らとは、全く違う、と。 「可哀想に」 は『白』…魂の抜けた抜け殻に、そう言ってのけた。 驚きの瞳を見ながらも。 ただ、紫苑の瞳を細めて。 口を、唱えるようにゆっくりと開いた。 「そんな感情に囚われて…抜け殻になってまで」 何を求めるというのか。 八戒を壊して、何になるというのか。 一時の歪んだ愛情と狂気を持ってそれを望んだとして。 抜け殻になった以上、それ以上の感情は生まれないというのに。 「可哀想な…『白』」 冷たい抜け殻。 冷たい感情。 いずれ、朽ち果てるだろうに。 魂のない、それは。 「…本当に、面白いですね…『死神』というモノは」 狂気に囚われた彼には届かない言葉。 魂がないのだから、当たり前だろうが。 歪められた笑みを見て、ただただ何も言わずにそれを見つめた。 「きっと、失いがいがあるでしょう…彼も」 涙が流れた痕を、長い舌でゆっくりと舐め上げる。 冷たいそれは、首筋の下から目元へと。 きっと、味も感じない、温もりも感じないだろうに。 そんなことを冷静に思う。 命を、握られていることを、感じながらも。 ゾクリともしない。 魂の解放で疲れているために、感情も感覚も鈍っているのだろうか。 清一色は、そのままの耳元へと口を寄せた。 「しばらくおやすみなさい……彼の目の前で、貴方を殺すまで」 まるで催眠術のよう。 耳元から伝わる、呼吸と声。 冷たいそれが身体中を伝わっていく。 歪む視界。 そこに、満月と狂気の笑みを浮かばせる清一色。 「……くそ……」 意識を失ってはいけない。 しかし、その意識とは逆に奪われている力。 暗闇へと、引きずり込まれていく。 (…ごめん) 見つけられなかった悟空に。 出来るだけ早く戻ると言った三蔵に。 恐らく悟空を心配する悟浄に。 そして。 (足手纏いになったら…ごめん) 自分を責めるであろう八戒に。 壊れていく、彼に。 届かぬ謝罪を。 ここで死ぬ気はない。 目的も果たしていない。 況してや、魂のない抜け殻に倒されるつもりはない。 だが、今動けないのは事実。 (…絶対に、抜け出してみせる) だが、三蔵一行でもない自分が死ぬことで誰かが壊れていくなど、言語道断。 そんなこと、自分のプライドが許さない。 関係のないものを巻き込むなど。 暗闇に沈む意識の中で唱えられる決意。 冷たい風が頬を撫でる。 「…おやすみなさい」 憎たらしいその声を聞きながら。 意識はその世界から切り離された。 脳裏に、あの美しき満月を見ながら。 いずれ昇る太陽を、感じながら。 |